恋の魔法使い(笑)、鬼喜王子です。
またしてもリクエストをいただいたのであるが、今回は恋愛。
僕がもっとも苦手とするテーマであるし、世の中に恋愛に関して語っていることはあふれているので、今更僕が何も言うことはないと思うのだが。
今まで読んだ中では、セラピストの石井裕之氏が言っていた「今までの自分を壊すために恋愛をする」というのがおもしろかったですな。
僕が少ない経験から言えるのは、恋愛は「とにかく行動してみろ」ということですな。
人類史上数えきれないくらい語られてきた恋愛の素晴らしさは、宝田明の言葉ではないが「やってみなきゃあ、わからない」のである。たとえその先ショックで手首を切ってしまう程の失恋が待ち受けていたとしても。
人は恋を重ねるたび、いや、失恋を経験するたびに大人になっていくのだ。
合い言葉は勇気。
そういえば、同名の三谷幸喜の傑作ドラマをまだ見ていなかった。
オランダ敗退が悲しい鬼喜王子です。
蚊の飛ぶ季節になりましたが「ka」ではなく「chikara」についてです。
先日「十二時」に、ホー・チミンの曾孫にあたるお客様がいらっしゃいました。
古来、国を興した英雄や革命家という人々は、どんなに温厚な好青年であったとしても、革命が完了し権力を握ったとたんに自分の地位を失うことを恐れ、冷酷な独裁者になるものである。遠くは漢の高祖、近くはソ連のスターリン等、ほとんど例外はない。
その数少ない例外が、ベトナムのホー・チミンである。そんな訳で僕は彼を尊敬していたので、ちょっと感激だった。ひ孫さん自体は普通のせいねんだったのだけれども。
ほとんどの人間は、力を持つとその力ゆえに自らをゆがめてしまう。
僕が大学で宗教学というものをやっていたとき、創価学会のドン・池田大作がなぜカリスマたりえるか調べたことがある。学会員の方には大変申し訳ないが、なんであんな淀んだ目をした強欲そうなジジイにみんなついていくのか? と。
青年時代の池田氏の写真を見てびっくりした。そこには「青雲の志」というものを人格化したような魅力あふれる人物がいたのだ。
で、日本サッカー協会の川淵会長(キャプテンというハズカシい呼称はあえて無視する)である。
常識的に判断して、「オシム監督発言」は、明らかに今回の日本のワールドカップ惨敗を招いた監督を選んだ自分への責任追及をさける手段だろう。
良識的なジャーナリストがこの件に関しては批判を行っているので、敢えてここでは何も言わないが、日本のサッカーが川淵氏のわがままで、4年間成長できなかったのは事実である。そして組織のトップの権力欲のために、また同じことを繰り返そうとしている。
川淵氏もJリーグをを発足させたときは、自らの進退を顧みず理想に突き進む「志士」であったのだ。
人は力故にゆがんでしまう。
そして問題はその問題に我々が踊らされていて気がつかないことである。
サッカージャーナリストの宇都宮徹壱氏が指摘したように、世界と日本との戦力差を見誤り、お祭り騒ぎで戦いに突入しぼろ負けをしたのは、太平洋戦争のときと何ら変わっていないのだ。
背筋が寒くなる。
正直ここまでサッカーが奥深いスポーツだとは思わなかった。
癒し系女優大好き☆な鬼喜王子です。
リクエストがありましたので、今日は「癒し」について語りたい。
いきなりであるが、僕はこの「癒し」というのが大嫌いである。
以上。
だとあんまりだと思うので、もう少し書くことにする。
そもそも生き物には、自然治癒能力というのが備わっており、多少のストレス、疲れ、怪我、病気なんかは、食って寝てりゃ治るものである。癒しというのは最終手段、いわば重い病気にかかったら薬を飲むようなものであると思うのだ。
現代社会がいくらストレスに満ちあふれているとはいえ、今人々はあまりにも安易に癒しに走りがちなのではないのか?
抗菌グッズが流行してしばらくしたあとに、清潔すぎる環境で育った子供がばい菌や病気に対して抵抗力が弱くなるので、抗菌一辺倒なのもどうか、という意見があったが、今の社会も癒しが簡単に手に入ってしまうため、ストレスに対する抵抗力も低下しているのではないのだろうか?
僕は癒しというものを否定するつもりはないし、それに関わる職業に従事している人々も尊いと思う。
でも映画を見るのなら、癒し系よりは、見ていて力が湧いてくる映画を見たいのである。
代表サポーター歴13年の鬼喜王子です。
いよいよワールドカップが始まりましたね。
最近のプロサッカー選手は、生業であるクラブチームの試合はちゃんとやるけれども、報酬が少ないナショナルチームの試合は手を抜く、などと言われていたこともあるのですが、どうしてどうして、皆さん気合の入った試合をしているではないですか!
気持ちが入ったプレーというのは見ていて気持ちのいいものですな。まさしくこれこそワールドカップの醍醐味!
今回日本は、初戦オーストラリアに負けてしまいましたが、気持ちで完全に負けていたと思います。
オーストラリアは「サッカールーに初勝利を!」という意思を、監督、スタッフ、選手、そしてサポーターまで一貫して持っていたと思うのです。
対して日本はがんばってはいたのですが、監督と選手で考えていることがバラバラで意思統一ができていない。勝ちたいという気持ちはあるのですが、そのために何をすればいいのか、監督が考えていることが選手に伝わっていない。かっこよく勝とうとかスケベ根性すらあったのではないかと思ってしまいます。
マジックでもそうなのですが、このスケベ根性というのが一番いかんのです。
プロのエンターテイナーであればまず「目の前のお客さんを楽しませる」という大前提があるわけですが、たとえばお客さんがたまたまかわいい女の子のときにカッコつけようとしたり、ちょっかいだしてくるお客さんに対して「ギャフンといわせてやろう」と思ったりするともういけません。そちらの目的に意識を取られてしまって先に挙げた大前提を忘れてしまうのです。
我々はこれを「邪念」と呼んで、マジックをやる際に大変注意しているのですが、この邪念があるときはまったく何をやっても受けません。逆にこの邪念がないときというのは、マジシャンと観客が一体となって大変いい仕事ができます。
いまの日本は(特に協会とジーコ監督に)邪念があるような気がしてなりません。
過去のスペイン(地域間の対立)、オランダ(人種差別)、イタリア(スター同士の確執)の例を挙げるまでもなく、一枚岩じゃないチームが勝ち進むことは非常に難しいでしょう。
日本チームはしばらく、邪念が入り込まないようサッカー馬鹿になってほしいものです。過去優勝したチームや躍進したチーム(よくも悪くも2002年の韓国がいい例です)、名監督(ミルディノビッチやトルシエ)はみんなサッカー馬鹿だったのですから。