寿司を食うときはイカからの、鬼喜王子です。
昨日はお休みをいただいたので、家で引越しのための荷物の整理なんぞをやっていた。
漫画家・柳沢きみおは傑作『大市民』のなかで、小説家は刺激を受けるため長くても5年に一度は住む場所を変えるべきだ、と言っていたが、これは小説家に限らず頭を使う職業の人間にはそのとおりだと思う。
この街には長く居すぎた。荷物の整理をしていると、音信不通となった友人からの年賀状、音楽業界でタダ同然のギャラで活動していたときにもらった名刺、そのとき好きだった女の子からもらったブーケ、その後こっぴどい別れ方をした当時の彼女からもらった手紙、昔よく使っていたマジック道具、等が生々しい思い出を呼び起こしてくる。
全部捨ててしまった。
NHKの番組「プロフェッショナル」の夏の特番でも言っていたが、人生で成長をするためには、大きな壁にぶつからなくてはいけないらしい。この街に住んでいた6年間、20代の後半というのは、その大きな壁にぶつかり乗り越えた時期なのだった。
スガシカオはどん底の時代、ご飯に胃薬をかけて食ったというが、僕も金が無かった時代は、一日中働いて、口にするのはペットボトルに入った水道水だけ、という日々もあった。
マジシャンとしての収入はほとんど無く、バイトに明け暮れる日々。「このままでいいのか」と不安がよぎることはあるものの、迷いはなかった。「プロになる」と思っていた。「プロになれる」とか「プロになりたい」とかではない、「プロになる」という根拠の無い強烈な自信。シカオちゃんもそうだったというが、「オレがデビューしたらマジックの歴史が変わる」と本気で信じていた。
バイトでどんどん仕事を任されるようになり、正社員の話も出てきはじめた頃、「このままではいかん」と思い、思い切ってバイトを全部やめた。
その後半年は同居する弟に寄生する日々。成人男性として最低の生活を送っていた。
英国の元首相・チャーチルの座右の銘は「絶対に、絶対に、絶対に、あきらめるな」だったらしい。星野仙一氏が阪神の監督だったときも、同じ意味のことをスローガンに掲げていた。
今の僕がここにいるのは、多くの人々の支えと応援、そして天から与えられたチャンスがあったからだが、あきらめていれば得ることはできなかったと思うのだ。
新しい一歩を踏み出すため、もうすぐこの街にさよならだ。
白山ラーメン。これもこの街に住んだいい思い出のひとつ
鬼喜王子です。
平家物語よりも昔から、世の中は諸行無常、変わらざるものはないものである。
それでも僕たちは今目の前にあるものを永遠であると信じ、それに依存して生きている。そしてある日それに裏切られて傷つくことになるのだ。
親は年老い、いつかは死んでしまう。恋人同士が出会った頃の、熱い気持ちのままでいられることはまれである。勤めている会社は、どんなに羽振りがよくても明日倒産するかもしれないし、住んでいる家はいつ地震が来て倒壊するかもしれない。
とまあ、毎度大げさな書き出しで始まってしまったが、例によって話はたいしたことはない。今回「いつもと同じ」と思い込んでしまったがための被害総額=数十円である。
毎週月曜日、僕は銀座にある事務所から四谷三丁目にある八時までタクシーで移動する。降りるところは四谷三丁目交差点手前にある信号で、「vodafone」の看板を目印にしている。この看板は赤くて目立つので、ボーっとしていても見逃すことはない。
その日もタクシーの中で今日のことを考えながら過ぎ行く街並を眺めていた。
ふと気がつくと降りるポイントを過ぎている。あわてて止めてもらってタクシーを降りた。いつもよりメーターが数十円高い。
いつも降りるところに行って見ると赤くて目立つ「vodafone」の看板が無かった。変わりにあったのは白くて周囲の風景に溶け込んでしまっている「SoftBank」の看板。
今年の正月に「三菱東京UFJ銀行」がいきなり登場したときもびっくりしたが、看板が変わると、こんなに街の表情が変わるとは。
そう、変わらざるものなどどこにも無いのだ。でも変わっていく速度が昔より速くなっているような気がするのは、年をとったせいだけではないだろう。
気持ちはいつでもチャレンジャー、な鬼喜王子です。
人には例え死には至らなくとも、「もうダメかもしんまい」と思う瞬間が人生に何度か訪れるようにできている、と思う。
僕が予備校生だった時代、模試を受けに京都産業大学に行った帰りに、京都駅へと向かうバスに乗った。京都市の地理を知らない人のために説明すると、京都市を北から南へほぼ完全に縦断する形になる。
長い試験が終わり尿意を催していたのだが、間の悪いことにバスの出発時刻が迫っていた。これを逃すとかなり帰りが遅くなる、ということで、トイレは我慢してバスに飛び乗った。が、なにぶん京都の北の端から南の端、時間がかかる上に、プチ渋滞。
膀胱はすでに破裂寸前。「ここ(バスの中、しかも満員)でだせたらどんなにいいだろう!」とは思うものの、人としてのプライドがそれを許さない。
トイレ以外のことが考えられなくなり、精神力だけで尿道を閉じていたそのとき、駅がバスに着いた。もちろんトイレに直行。あの時僕は、人は何ももたなくても幸せになれるのだと、痛感した。
それから約10年後、また限界を精神力で超える経験をしてしまうとは…。
先日、引越し先を探す必要にせまられて、三田方面の不動産屋を見て回ったのだが、「せっかく近くまで来たのだから、ファンサイトができるくらい人気のラーメン屋『二郎三田本店』に行ってみよう」、と慶応大学正門方面へ向かった。
うわさ通りのすごい行列。炎天下でも誰も文句を言わない。
20分ほど並んでから、やっと「豚入り小」注文。出てきたのは普通のラーメン屋なら特盛でも出てこないようなすごい量だった。
麺は太めでしっかりと食べ応えがある。焼き豚も「枚」で数えるよりは「個」で数えたほうがよさそうなくらい分厚い。スープは濃厚でしょうががバッチリ効いている。
うまい。うまいんだけど、タイプじゃないのだ。浜崎あゆみは可愛いとは思うが、タイプではないように。
それにしてもこの量はどうだ。食っても食っても一向に減らない。今日は二郎に行くことを予想して朝から何も食べていなかったにもかかわらず!
残そうかと思った。だが目の前で一生懸命作ってくれているオヤジ、外で文句一つ言わずに並んでいる人、店内でこのラーメンを食うことだけに集中している客、この人たちのことを考えると、残すなんてことは人として許されない。
約15分後、精神力だけで完食した僕は炎天下を再び歩き出したが、吐きそうだった。気持ち悪くてではない。純粋に体の容量を食ったものが上回っているのだ。だがとりあえずは人としてのメンツは保った。
ラーメン二郎、恐るべし。
ペプシの2001年宇宙の旅がどうなったかとても気になる、鬼喜王子です。
時事ネタとその感想はあまり書かないようにしているのですが(そっち方面に偏ってしまいがちなので…)、このニュースは取り上げずにいられなかった。
単に惑星の定義を変えるだけなのだが、それでも胸がときめいてしまう。
ましてや付け加わるのは、冥王星(わからない方へ:とっても小さい)程度の星だというのに。
今いる場所から遠く離れた場所での出来事。おそらく一生そこへ行くことはないだろうし、そこにかかわることも人生に影響を及ぼすこともないだろう。
大宇宙へのあこがれ。それだけが僕のトキメキを支えている。心はアストロノーツにあこがれていた少年のまま。
そんな自分が素敵に感じる今日この頃☆
遅咲きデビューの鬼喜王子です。
僕がスガシカオを知ったのはもう7,8年前になると思う。「夜明け前」という曲を発表した頃だ。希望に満ち溢れたメロディと絶望感を漂わせる歌詞がなんともいえない雰囲気を作り出しているこの名曲を、彼のラジオ番組で聞いていたときのことだ。
その後SMAPに「夜空のムコウ」を楽曲提供したりして次第に有名になっていったが、それでもスガ氏の曲を聴こうと思えば、CDを買ってきたり、時間に合わせてラジオのチューニングをセットしたり、めったに出ないテレビ番組をチェックしなければならなかった。
ところが最近、僕がたまたまはまってしまったマンガに、「デス・ノート」と「ハチミツとクローバー」があるのだが、この2つのマンガは映画化されるにあたって、どちらもスガシカオが主題歌を提供していたのだ。
それと先日も書いたが、NHKの「プロフェッショナル~仕事の流儀」という番組に自分の恩師が出ていたのだが、この番組の主題歌もスガ氏が歌っていた(名義はkokua)。ラジオや有線でも意識しなくても彼の曲が聞こえてくるようになった。
スガシカオは遅咲きのアーティストである。30歳をすぎてデビューをして周囲からは「絶対にムリ」といわれ続けてここまでやってきた。楽曲や言動だけでなく、こういう姿勢もふくめて、スガシカオは僕のヒーローであったのだ。僕がマジックを始めたのも決して早いとはいえない時期だったからだ。
彼がいい曲をつくると、僕も頑張ろうという気になる。
彼の歌のようにひとの心を動かしていきたいと思う。
鬼喜王子です。
僕には1年の中で特に何かの記念日ではないのだが、印象に残っている日というのが何日かあって、8月6日はそんな日の一つだ。
言うまでもなくこの日は61年前に広島に原子爆弾が投下された日であるが、それとは関係なく、僕にとってこの日は毎年「暑くて静かな夏の日」なのである。
小学生のときの夏休みの登校日、中学生の時の部活(ちなみにバレー部だった)、受験勉強をしていた高校生のとき、昼まで寝ていて暑さで起きた大学生のとき、バイクの一発試験を受けに行ったときの府中の試験場の待合室。
いつのときも、空は真っ青に晴れ渡り、太陽はギラギラしてうだるように暑く、ミンミンゼミがうるさいほど鳴いているにもかかわらず街は静まりかえっていた。「岩にしみいる蝉の声」とはよくいったものである。
先ほど原爆の投下は関係ないといったが、ひょっとするとあの灼熱地獄がこの暑さを作り出し、そのときに失われた多くの命がこの静寂を作りだしているのかもしれない。あるいはその日の朝も暑かったというから、天がその日を毎年再現させているのであろうか?
ともあれ、夏の喧騒の中に静けさを感じるこの日、夏の終わりを予感して、毎年僕は少し寂しい気分になる。
最近になって「デス・ノート」にはまった、鬼喜王子です。
僕が20代前半から半ばにかけてずっと考えていたのは、「魅力ある人間とはなにか」ということだった。それを考えながら本を読み漁り、映画を見、人に会っていた。
なにしろその頃の僕といえば、人付き合いは超苦手、女にはもてない、等のコンプレックスを抱え込んでおり、魅力とは程遠い人間だったのだ。
余談ではあるが、司馬遼太郎が「人間の魅力とは何か」を40歳前後のときに考えながら書いたのが『竜馬がゆく』らしい。
結論から言うと、魅力のある人間というのは、ある意味「不完全な人間」「完璧からちょっと崩れた人間」なのである。
パーフェクトな人間というのは尊敬はされるかもしれないが、決して好かれることはないでしょう。古今東西の小説を探して見ても、聖人君子の一生を取り扱ったものは一つとしてなく、主人公が駄目人間だったり、悪人だったり、癖のある人物だったりするわけです。
映画になった漫画「デス・ノート」だって、主人公が人間のなりをした死神というべき存在だからこそ面白いわけであって、ずっと優等生キャラだったらあんなに人気は出なかったと思いますよ。
先に「ひとつもない」といいましたが、唯一の例外が新約聖書です。それゆえにつまらなく、日曜学校で居眠りをする人が後を絶たないわけですが。しかしながら『ダヴィンチ・コード』で世に広まってしまったように、今の聖書は「人間キリスト」の部分を切り捨てたものですから、改ざん前のものはそこそこ面白かったようですよ。
完璧な正しさというのはいいことだけれども、堅苦しくてちょっと敬遠しがちです。逆に「悪」というものに対してはイケナイこととはわかりつつも、魅力を感じてしまうものなのであります。やりすぎてしまうと、ドン引きされるという危険はありますが、劇薬は少量であれば絶大な効果を催すときがあるのです。
コレに目をつけたのが、もうお辞めになりましたが、雑誌LEONの名物編集長・岸田一郎氏でありまして、「ちょいワルオヤジ」なるカテゴリーを作ってしまいました。
今では確固たる地位を気づいているそうで、六本木ヒルズでLEONに載っている服をそのまま買っていく「ちょいワル」芸能人が後をたたないそうです。
というわけで、来月か再来月のLEONを是非ともご覧いただきたいと思います。
土砂降りの痛みの中を傘もささずに走っていく、鬼喜王子です。
名著『サルでもわかるまんが教室』(相原コージ・竹熊健太郎著)で少女漫画のヒットするパターンとしてこういうのがあった。
主人公(女の子)が「遅刻、遅刻」と家を飛び出し学校に向かう。曲がり角で男にぶつかる。乱暴な言葉を投げつけられ喧嘩寸前になるふたり。なんとそいつは転校生だった! チョイワル((c)LEON)なアイツの学校での言動に、いちいちむかつく主人公「なにさ、あんなやつ!」 そしてある日見てしまう。土砂降りの雨の中、傘もささずに捨て犬にかまっているアイツを「おーよしよし、お前もひとりぼっちか。かわいそうにな」 それを「キュンッ☆」となる主人公。そして恋が始まる…。
諸君、コレですよ! ココにすべてが集約されております。
人は意外性というものに魅力を感じます。我々の仕事であるマジックもここに負っている部分が大きいのですが、それはここでは置いておくとして、昔から世の男性の理想像として「昼は貞女の如く、夜は娼婦のように」というのがあります。ものすごく下世話に言えば「清楚な顔してこんなに!」というのにどうしようもなく反応してしまうものなのです。最近流行の「ロリ顔に巨乳」というのもそうです。たとえフェミニストの方が怒っても、オトコというのは大変どうしようもない生物なのです。ちなみに個人的な話で恐縮ですが、私の友人に現役エロ漫画家がいまして、そいつが作品を書くときにアドバイスしたら、その部分が編集者に激賞されたという経験があるので、持論にはかなりの自信をもっています。
さて、このGAP(アメリカン・カジュアルブランドではない、念のため)に魅力を感じるという理論は逆方向にも適応されるのであります。
仮に(個人名を出すのは大変心苦しいのですが)倖田來未系・エロカワイイギャルをナンパでゲットだぜ(byポケモン・蒼海の王子マナフィ公開中)して、ベッドインしたとしましょう。世の女子には耳をかっぽじって聞いていただきたいのですが、彼女がもしベッドの中で「エロかわいく」振舞ったとしたら、オトコというものはほぼ100%ゲンナリします。「アタシのカレはやさしいから大丈夫よぅ」と言っている貴女、潜在意識レベルではカレに飽きられているかもしれません。下手するとその日のうちにポイされます。
オトコが倖田來未系彼女にベッドの中で求めるのは見た目とのGAP、つまり「異常なまでに恥らう貴女」なのです。オトコというのはそこに興奮するものなのです!
勢いに任せて書いたら、かなりY軸に話が傾いてしまったので元に戻しますが、結局好みというのは一つの要素で限定できるものではありません。二つ以上の要素とその関係がどれだけ意外性に満ちているかに拠るのです。
もちろん個人差とか限度はあります。たとえば女装癖がある男性をカレとして受け入れられないひともいるでしょうし、私のように黙っていればCOOL GUY(自分で言うな)なのに、口を開けばオヤジトーク炸裂、というのについてこれなかった女性も数多くいました。同性愛などというのは意外性の極地ですが、受け入れられない人はうけいれられないでしょう。
前編で言っていた「ある種のタイミング」というのは、実はこのギャップにどのタイミングで出会えるか、ということであります。先の少女まんがの例で言うと、初対面の時点で捨て犬を可愛がっているのを見ると、単なる「いい人」で終わってしまい、恋に発展する可能性はほぼゼロといっていいでしょう。発展してもそこにはドラマとしての面白さはほとんどありません。
QUEENの故フレディ・マーキュリーもデビュー当時からゲイであることをカミングアウトしていたらおそらく総スカンをくらっていたことは想像に難くないでしょう。人気絶頂期に苦悩するロックアーティストとしてカミングアウトしたからこそ、その苦悩と音楽の素晴らしさのギャップ、そしてその後の開放感とのギャップに我々は酔いしれるのであります。タイミングがすべてなのです。
で、肝心の私の好みですが、勝気に見える女性にすごく弱いところがあるのを見せられたり、逆にかよわそうな女性に芯が強い部分を発見すると、すごく「キュンッ☆」となります。どちらかというと後者のほうが好み。