鬼喜王子です。
先日の日曜、上野は国立科学博物館でやっている「化け物展」に行ってきたので、そのレポートでも書こうかと思ったのですが、諸事情により写真がまだ手元にないので、別のことを書こうかと思います。
その日の夜、たまたまテレビをつけたらNHKで手塚治虫のドキュメンタリーをやっていた。
手塚治虫。数々のヒット作のみならず、後世に残る名作を生み出した「マンガの神様」。無くなってからもう17年も経つのだ。
僕ももちろん、手塚治虫のマンガをたくさん読んで育ってきた。「智謀沸くが如し」ではないが、「神様」なんだから、それこそ映画の「アマデウス」のモーツァルトのようにすらすらと物語がでてくるものだと思っていた。
ハードワークなのは聞いていたが、それは頭に体がついていかない類のものだと思っていた。
とんでもない話である。
手塚治虫はずっと苦しみながらマンガを生み出していたのだ。
悪書追放運動でいわれのないつるし上げを食らったり、劇画ブームの中、「古い」と読者に切り捨てられ、試行錯誤をして作風を変えて残った読者にも切り捨てられた。
それでも「いのちの大切さ」を訴え続けてマンガを描き続けた。文字通り命を削って「いのち」を表現し続けた。
そうして『ブラックジャック』『火の鳥』あと注目されることは少ないんだけど僕が手塚の最高傑作だと思っている『陽だまりの樹』といった不朽の名作が生まれていったのだ。
天才といえど、やはり大きな苦しみなしには、素晴らしいものを生み出せないということか。
なによりもいのちの大切さ、いのちとは何なのかというのを、深く考えさせられた。
本来慈しみあう間柄であるはずの親子の間ですら、頻繁に殺人が行われる今日、いのちの本当の意味を知っている人がどれだけいるのだろうか?
手塚によると、いのちというのは、ほんの何百分の一が人生として表出しているだけであって、永遠に連綿と続いていくものらしい。
僕は仏教徒の家に生まれ、大学では宗教学を専攻していたくせに、転生とか前世というものを信じていない、というか嫌いだからうけつけない(というのは、やたら前世前世という人に限って、今を生きていない、つまり逃げる口実にしているからだ)。でも手塚の言葉を聞くと、いのちとはそういうものかもしれないとも思う。それは転生というかたちでも、あるいは親から子供へと受け継がれていくというかたちでも、あらゆる意味でだ。
心というのは、場所を越え、時を越え、時には生死を越えてしまうものなのだから。