寺で聖書を読んで育った、鬼喜王子です。
ご存知の方もいるかもしれないが、僕の実家は禅寺である。
この話をすると必ずといっていいほど「後を継がなくていいの?」と聞かれる。
僕は継ごうと思ったことは一度もないし、親父も「自由に好きなことをやって、人様の役に立て」と言って、跡目のことを共用したことはまったく無い。
何で親の人生に僕の自由が制限されなくちゃならんのだ? 封建時代でもあるまいし。
ところが僕の友達には、わざわざ東京の大学を出て東京で就職したのに、実家の酒屋を継ぐために帰郷して行った奴もいる。
普段から、別に人生を悲観するでも理不尽だとさわぐでもなく、親の店を継ぐのはさも当然、といった態度だった。
僕はそいつのことを、たまらなくカッコいいと思った。
自分が選んだ道を歩いている自分の方がカッコいいはずなのに、こいつにはかなわない、とまで思った。
でもこのカッコよさの正体がわからなかった。
ところで僕は『ドラゴン桜』というマンガには何かと縁があって、最近出たばかりの公式副読本『16歳の教科書』というのを読む機会に恵まれた。
国語・数学・理科・社会等、各界で一流とされている先生方が16歳の少年少女に話しかける、という本なのだが、この中の金田一秀穂先生の話に心打たれた。
正確に言うと、話ではなく、態度というか落ち着き払ったオーラに静かに圧倒されたのだった。
金田一秀穂氏は自身も一流の国語学者だが、祖父・京助、父・春彦も、国語辞典を目にしたことがあるなら、誰もが知っている大学者でいらっしゃる。
考えてもみて欲しい。自分のおじいさんや親父がその道で超一流の世界に自分も飛び込んでいくのだ。その勇気と覚悟たるや並大抵ではない。プレッシャーで完全にグレてしまってもおかしくない。
秀穂氏は最初から国語学者になろうとしていたわけではないらしいのだが、自分が好きなことを探していくうちに、国語学に行き着いたらしい。そんな秀穂氏の語り口は優しく、絶対に怒らないだろうな、という落ち着いた雰囲気である。しかしその裏にはてこでも動かない信念を感じる。
この人も親の後を継いだ独特のカッコよさを持っている。
僕にはうまく表現できないのだが、意志を継ぐことの尊さ、意義、責任感、誇り。1代では得られない重みがそこにはある。
何かを得ようとすれば、必ず何かを失う。何かを持ち続けようとすれば、何かを得ることをあきらめなければいけない。
ただそこに覚悟を決めた人だけが、輝いているのかもしれない。